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藤原京の生活


  

木簡



 木札に文字などを記したものを木簡(もっかん)と呼ぶ。
 古く文字は紙ではなく木に記されたが,現在でも私たちの身の回りには,入り口の表札や経木・卒塔婆など,木に文字を書くことは行われている。
 古代において木に文字を記すことは,東西を問わずに行われたことで,紀元前6世紀末に始まるローマ帝国時代の遺物にも,文字を記した木簡があるという。
 東洋でもっとも古い木簡は,中国で見つかったものだが(紀元前4世紀から紀元3世紀ころか),日本で発見されている古いものは,紀元7世紀後半から8世紀のものである。また,中国では竹簡(ちくかん)と呼ばれる竹に記したものが見つかっているが,日本では見つかっていない。
 日本全国から,現在までに約17万点にものぼる木簡が発見されていて,藤原宮跡からは約6700点の木簡が出土している。これらの木簡は,当然藤原京時代のものが多いが,それ以外に遷都以前の史料の乏しい飛鳥時代のものも含まれている。
 史料そのものが現存しない律令制確立期の浄御原令と大宝令の条文や,清書されてしまった『日本書紀』や『続日本紀』の直接の資料が発見される可能性もあることは特に注目される。
 すべての木簡が歴史的に貴重な情報を伝えてくれるわけではないが,記録に残らなかった当時の情勢や生活を知るために大変重要な資料であることに間違いはない。


 己亥年十月上挾国阿波評松里

  (藤原宮跡北面外濠出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)


 己亥年は六九九年(文武三)。
「上挾国」は現在の千葉県南部。「評」は郡の前身で、七〇一年以後は「郡」と書くようになる。「阿波評」はのちの安房国安房郡、安房国は七一八年(養老二)に上総国から分置される。
 『日本書紀』の記述が七〇一年以後の書式で書かれていることが明らかとなった、記念碑的木簡である。




  受被給薬車前子一升 西辛一両 久参四両 右三種
  多治麻内親王宮政人正八位下陽胡甥

    (藤原宮跡出土・奈良県橿原考古学研究所附属博物館蔵)

 

受け給はる薬〈車前子一升 西辛一両 久参四両 右三種〉、
多治麻内親王の宮の政人正八位下陽胡甥。

 「多治麻内親王」は天武皇女である但馬皇女。和銅元年六月三品で薨じている。
『万葉集』に穂積皇子との熱い恋で知られる(巻二・一一四〜一一六)。
 木簡は、多治麻内親王家から典薬寮に三種の薬を請求した時のもの。多治麻内親王は風邪気味で、胃炎を起こしていたか。

 
  

紀年木簡


 年時の記された木簡を「紀年木簡」と呼ぶ。
 紀年とは、その事実のあった年時のことである。
「大宝」という元号制定以前は、「甲乙丙丁戊己庚辛壬癸」の十干と、「子丑寅卯辰巳午未申酉戌亥」の十二支を組み合わせて表記していた。

飛鳥池遺跡出土・丁丑年の記載がある木簡の写真

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済





           〈加尓評久々利五十戸
丁丑年十二月次米三野国
            物マ古麻呂〉

 (奈良県飛鳥池遺跡出土)


 藤原京以前の飛鳥浄御原宮の時代の木簡である。
丁丑(ていちゅう・ひのとうし)年は677年(天武6)にあたる。「三野国加尓評久々利五十戸」という記載から、この頃には国ー評(のちの郡)ー五十戸(のちの里・郷)という地方行政制度があったことが知られる。「三野国加尓評」はのちの美濃国可児郡。「次米」は「スキノコメ」で宮廷祭祀である大嘗祭や新嘗祭の際に、新穀を貢進することが指定される悠紀(ゆき)・主基(すき)の国の主基にあたる。



藤原宮出土・庚子年の記載のある木簡の写真

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済

   




  〈若佐國小丹生評
庚子年四月
      木ツ里里秦人申二斗〉      

 (藤原宮跡出土)

 荷札木簡。庚子(こうし・かのえね)年は七〇〇年(文武四)。
翌七〇一年以後は「大宝」という年号を用いるようになるが、その前年まで干支を用いていたことが判明する。
 また、七〇一年以後は「郡」と書くが、それ以前は「評」と書いていたことがわかる。
 「小丹生評木ツ里」はのちの遠敷郡木津郷にあたる。「二斗」の品名は他の木簡から塩と推定される。


藤原宮出土・大宝三年の記載のある木簡

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済









大寶三年十一月十二日御野国楡皮十斤

 (藤原宮跡出土)

 大宝三年は七〇三年。年月日を文の冒頭に書く最後の例である。以後は年月日を末尾に書くようになる。
「楡皮(にれのかわ)」は平安時代初期には美濃国から典薬寮に貢進されることになっていた(『延喜式』典薬寮)。その貢進荷札か。「楡皮」は薬物のほか、粉末にして調味料とした。
『万葉集』の歌に、楡皮を干して粉末と塩をまぜたものをカニに塗る描写がある。

  …あしひきの この片山の もむ楡を 五百枝剥ぎ垂れ 天照るや 日の異に干し さひづるや 唐臼に舂き 庭に立つ 手臼に舂き…(巻十六・三八八六)
 

呪符木簡




 「急々如律令」の呪句や、道教的信仰に基づく符淨(日・鬼の文字や星辰などを組み合わせた呪文)を記した木簡を「呪符木簡」と呼びます。その多くは中世のものですが,7世紀前半〜後半のものが出土し始めています。


【表】
   遊年在乾  絶命在離忌   甚
年卅五            占者 
  禍害在巽忌 生氣在兌宜   吉

   (藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)

 年齢三十五歳の人の、その年の禁忌の八卦占いの結果を書いたもの。平安時代初頭に成立した『日本霊異記』には平城京の率川神社の前に相八卦占いがいたことが記されている(中巻二十四)が、藤原京の時代から占い師がいたのである。

【裏】
    □月十一日庚寅木開吉
宮仕良日 
    時者卯辰間乙時吉

   (藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)

 この人の宮仕えの良日は□月十一日が「吉」だという。
「十一日庚寅木開」は、七〇五年(慶雲二)三月十一日庚寅と推定されている。「卯辰間」は午前六時から午前九時の間。




       
 

【表】
        七里□□内□送々打々急々如律令
四方卅大神龍王

   (藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)

 四方の神である「大神龍王」は、中世の呪符木簡では知られていたが、この木簡によって藤原京の時代から信仰があったことが判明した。
四方の神に災難(悪霊)を追い払うことを願ったものか。末尾の「急々如律令」は呪符の常套句で「災いよ速やかに退散せよ」の意味。

【裏】

東方木神王     婢麻佐女生申廿九黒色
南方火神王 (絵) 
中央土神王

   (藤原京右京九条四坊出土・橿原市教育委員会蔵・複製)

 裏側には五行思想にもとづいた五方の神と絵が描かれている。足にひもが結ばれていると見ると申年生まれ二十九歳の色黒の婢の麻佐女ともう一人の婢はいけにえにされたと考えることもできる。この絵で身代わりにしたという説もある。
 


宣命



 古くから,大王・天皇の命令は「御言宣り(詔)」と言われるように口頭で伝えられていた。その命令を,「宣命体」と呼ばれる方法で書き記したものを「宣命」と呼ぶ。
 文献に見える「宣命体」は,自立語や活用語(動詞・形容詞など)の語幹(活用しない部分)を大字で,付属語(助詞・助動詞など)や活用語尾を小字で表記し,日本語の語順通りに書記する方法(「宣命小書体」と呼ぶ)とされていた。
 しかし,藤原宮跡から出土した木簡は,文献に見える最古の宣命である『続日本紀』に収められた文武天皇即位の詔(697年)とほぼ同時代のものでありながら,すべて同じ大きさの文字で記されていた(「宣命大書体」と呼ぶ)のである。
 これまで,古代の日本語表記研究は,文献に残された文字史料を中心に行われ,付属語などをまったく書記しない方法である漢文体から,宣命体(すべて大字から小字を交えた形へ),そして漢字かな交じりへと進化していったと考えていた。
 しかし,それらの文献は後の時代に書写されたものが多く,果たして奈良時代やそれ以前の書記方法を,本当に正しく伝えているのか疑問視する声もあった。
 近年相次ぐ,文字を記した木簡の出土は,日本語の書記方法に対する定説を崩し始めたところである。

人麻呂の表記



 『万葉集』の編さん資料のひとつとなった「柿本朝臣人麻呂歌集」は、人麻呂の歌を集めたもの、もしくは人麻呂がその成立に深く関与したものと考えるのが現在では支配的である。
 そして、『万葉集』に「人麻呂作」と明記されている歌以前の、若いころの歌がおさめられていると考えられることから、日本語の書記方法を論ずる上での重要な材料とされてきた。
 人麻呂歌集には2種類の特殊な書記方法が見られる。

 1 春山 友鶯 鳴 別 眷 益間 思御吾     (巻十・1890)
    春山 友鶯 鳴き別 眷(かへ) ます間  思ほせ吾(われ)

 2 巻向檜原春霞欝名積米八方 (巻十・1813)
    巻向の 檜原(ひはら)に立てる 春霞 おほにし思はば なづみこめやも

 早く江戸時代の国学者たちが気づき、賀茂真淵1を「詩体2を「常体」と名付けた。

 現在は、阿蘇瑞枝『柿本人麻呂論考』によって1のように付属語や活用語尾が書記されていない歌を「略体歌(りゃくたいか)」とし、2のようにそれらを書記したものを「非略体歌(ひりゃくたいか)」と区別する。

 稲岡耕二『萬葉表記論』は、巻十の2033番歌(非略体歌)の左注にある「庚申年」(680年・天武9年)を転機として、人麻呂は略体歌から非略体歌へと書記方法を発展させていったと考えた。そして、非略体歌という書記方法は、藤原宮跡から出土した木簡に見られる「宣命大書体」を原形として成立したのではないかとする。

 中国大陸の表記に近い略体歌から、日本語を書くのによりふさわしい非略体歌へと、書記方法が発展していったとする考えは魅力的である。そして、その「宣命大書体」から、付属語や活用語尾の区別を明示するために「宣命小書体」が生まれ、さらには漢字かな交じり文や、『万葉集』の家持歌日誌の部分で確認できるような万葉仮名による一字一音表記へと、発展・変化していったと考えられてきた。
 しかし、推古朝の遺物に残された文字や、近年発見されて話題となった観音寺遺跡出土の「なにはづ」木簡などから、古くから日本語を一字一音ずつ書記する方法もあったことがわかり、定説は崩れはじめている。

 「略体歌から非略体歌へ」という人麻呂歌集に見られる書記方法の変化は、当時の日本語の書記方法全般に通用できることなのか、それとも、人麻呂という歌人の個人的な営為なのか、相次ぐ木簡の出土発見によって、再び論争がまきおこっている。


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