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「歌の聖」から「歌の神」へ


1.はじめに


 越中に赴任してきた翌年の天平19年(747)春、大伴家持(おおとものやかもち)は大病をわずらい、病床にあった。その病も快方に向かっていた3月3日、大伴池主(おおとものいけぬし)に贈った歌(巻十七・3969〜3972)の題詞のなかで、家持は「山柿の門(さんしのもん)」について語っている。

  幼年に未(いま)だ山柿の門に逕(いた)らず、
  裁歌の趣(さいかのおもぶき)、
  詞(ことば)を■林(じゅりん)に失ふ。


 家持は、尊敬する先人として「山柿」を強く意識していた。この「山柿」は誰を示すのか。古来いくつかの説が提示されてきたが、そのひとりが柿本人麻呂であることはまちがいない。家持にとって人麻呂は、先人としてつねに意識しなければならない歌人だったのである。
 
【 関連展示品】
・西本願寺本『万葉集』 (複製)

2.歌の聖・人麻呂


 平安時代のはじめ、最初の勅撰和歌集(ちょくせんわかしゅう)『古今和歌集』の仮名で書かれた序文(「仮名序(かなじょ)」と呼んでいる)のなかに、柿本人麻呂が登場する。

いにしへより、かくつたはるうちにも、ならの御時よりぞ、ひろまりにける。
かのおほむ世や、哥の心を、しろしめしたりけむ。かのおほむ時に、おほきみつのくらゐかきのもとの人まろなむ、うたのひじりなりける。

 文武天皇の時代に、「正三位柿本人麻呂」が「歌の聖(ひじり)」として活躍していたという。しかし、人麻呂が「正三位」であったという史料はなく、むしろ『万葉集』からすると、位の低い歌人であったと考えられる。
 人麻呂の活躍した時代から約200年が経った平安時代のはじめ、すでに人麻呂は「歌の聖」として伝説化していた。その後、『古今和歌集』が歌人たちの手本として重視されるなかで、人麻呂はますます「歌の聖」として崇拝されてゆく。
 この「歌の聖」となった人麻呂の歌が、『古今和歌集』に7首ある。しかし、すべて「読み人知らず」の歌に、「ある人の説」として「人麻呂作」と注記されていることから、真作ではないとする考えが支配的である。しかし、この7首のなかに、後世人麻呂の代表作として考えられた歌がある。

  ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
                                   (巻九「羈旅歌きりょか」)


 「余情」の最高傑作と考えた藤原公任(ふじわらのきんとう)にはじまって、この歌は人麻呂の真作としてひとり歩きしはじめた。さらには、この歌をめぐる秘伝までもが、まことしやかに語られるようになってゆく。人麻呂は、『万葉集』そのものではなく、『古今和歌集』にあるこの歌をもとに、さらにあらたな「人麻呂」像が生成されてゆくこととなるのである。

【関連展示品】
 ・冷泉家蔵・嘉禄二年本『古今集』 (国宝の影印)
 ・伝藤原公任筆本『古今集』 (複製)  


3.人麿影供のはじまり


 鎌倉時代の説話集『十訓抄(じっきんしょう)』に、人麿影供(ひとまろえいぐ)のはじまりをめぐる逸話がある。
 歌をうまく詠みたいと日ごろから人麻呂を念じていた藤原兼房(かねふさ)の夢のなかに、人麻呂が現れた。それは、直衣(のうし)・指貫(さしぬき)・烏帽子(えぼし)姿で、左手に紙、右手に筆を持って、なにか考えこんでいる、どうみても「常の人」には見えない姿だった。夢から覚めた兼房は、すぐさま絵師を呼んで、夢に見たこの人麻呂の姿を描かせて、毎日拝礼した。そして、そのご利益で、歌がうまくなっていった。この絵像は、兼房臨終に際して、白河院に献上され、宝物として「鳥羽の宝蔵」に納められることとなる。その後、藤原顕季がその絵像を借り出して、写し描かせた。そこに、人麻呂をほめたたえる文章と、『古今和歌集』の「ほのぼのと明石の浦の…」の歌を書き加えてご本尊として崇拝するようになり、人麿影供がはじまった。元永元年(1118)6月16日のことである。
 影供とは、崇拝する神仏や人物の像をかかげて、供物をそなえ礼拝する儀式のことである。
 平安時代末に活躍した歌人藤原顕季にはじまる歌道家六条家(ろくじょうけ)では、このときの絵像が子孫に代々受け継がれて、人麿影供は欠かすことなく続けられた。さらに鎌倉時代になると、影供と歌合(うたあわせ)が結びつくようになって、人麻呂崇拝は、ひろく歌人たちのあいだに広がっていった。
 人麻呂像を礼拝する儀式であった影供の普及は、ますます人麻呂を神格化することにつながり、歌道を宗教的に方向づける役割も果たした。同時に、人麻呂の姿が描かれたことが契機となって、人麻呂もふくまれる「三十六歌仙絵」が多く生み出されることにもなった。そのため、さきの逸話に語られる兼房の夢に現れた人麻呂が、三十六歌仙絵の人麻呂像の基準となるのである。
 『古今和歌集』の仮名序のなかで「歌の聖」とされた人麻呂は、平安時代末にはじまる人麿影供という儀式の普及とともに、「歌の神」というあらたな役割をあたえられることとなるのである。

 【関連展示品】
 加藤千蔭「人麻呂像」  
加藤千蔭「人麻呂像」

 ・東陽良雪「古画人丸ノ像」
 ・佐竹本三十六歌仙絵「人麻呂」
 ・『人麿集』


4.「歌の神」への変容


 「人麿影供」という儀式の普及によって、人麻呂は「歌の聖」から「歌の神」へと変容していった。
 藤原顕季(あきすえ)が人麿影供をはじめておこなった平安時代の終わりごろ、歌人として活躍した住吉大社第39代神主津守国基(つもりくにもと)は、和歌浦玉津島神社(わかのうらたまつしまじんじゃ)の祭神「玉津島明神(衣通姫・そとおりひめ)」を住吉大社(すみよしたいしゃ)の神として迎えた。これ以降、航海の神であったはずの住吉明神は、あらたに「歌の神」としての役割も担うこととなるのである。
 そのころ、顕季にはじまる六条家が人麻呂を崇拝したのに対して、藤原定家(ふじわらていか)を輩出した御子左家(みこひだりけ)では、定家の父俊成(しゅんぜい)が住吉明神と玉津島明神を平安京に勧進して「新玉津島神社」を創建し、歌の守護神として崇拝していた。
 もともとは別々の「歌の神」として崇拝されていた人麻呂・住吉明神・玉津島明神の3神は、住吉=玉津島、住吉=人麻呂など、それぞれが同一神の化身であるかのように混同されたりしながら、徐々に歌の守護神「和歌三神」として、まとめて崇拝されるようになってゆく。
 人麻呂は、もはやたんなる「歌の聖」ではなく、「和歌三神」のひとりとして「歌の神」というあらたな地位を獲得したのである。そして、このような人麻呂崇拝は、歌人たちだけでなく、連歌師や俳人たちにまで深く浸透してゆくこととなる。
 そのような人麻呂が「歌の神」としてあらためて注目されるのは江戸時代の中ごろ、享保8年(1723)である。この年は、人麻呂の一千年忌にあたる年とされ、明石人丸神社(兵庫県)高津柿本神社(島根県益田市)に対して、朝廷から正一位が贈位され、祭神を「柿本大明神」、社号を「柿本社」とするという宣命(せんみょう)が下された。『古今和歌集』の仮名序のなかで「正三位柿本人麻呂」と記された「歌の聖」人麻呂は、「正一位柿本大明神」という神の最高位にのぼったのである。
 しかし、このような人麻呂崇拝は、やや変化した形で民間にも浸透していた。人麻呂は「人丸」と書く場合が多く、その音にかけて「火止まる」や「人産まる」と解釈し、防火、安産の神として信仰していたのである。つまり、民間の人麻呂崇拝は、たんに最高位の大明神として霊験にあずかる対象にすぎなかったのだろう。

【関連展示品】
 ・「和歌三神図」(上) 、「和歌三神図」の人麿大明神の歌の拡大したもの(下)
和歌三神図人麿大明神の歌の部分の写真

 ・明石人丸神社「火防刷物」
 ・内山邸「人丸神像」 (複製)

5.さいごに


 昭和3年に主婦の友社は昭和改元を記念して、『万葉集』のなかから名歌を読者投票で100首選んで「萬葉百首絵かるた」を作成した。この100首のうち人麻呂歌は、「人麻呂歌集」歌をふくめて11首選ばれている。『万葉集』中最多の歌数を誇る家持でさえ5首であることから、この数字はかなり多い。
 また、アララギ派の歌人斎藤茂吉は、人麻呂を崇拝しつつ、人麻呂研究に没頭して『柿本人麿』全5巻の大著を完成させた。とくに、人麻呂の自傷歌に詠まれた「鴨山」を終焉地として探索を続け、ついに島根県湯抱温泉がその地であるという結論に達したときの感激を、つぎのように歌いあげた。

  人麿がつひのいのちを終はりたる鴨山をしも此処と定めむ (昭和12年11月)

 長く『万葉集』を代表する歌人は人麻呂だった。いまもそう考える人は多いだろう。たしかに当館が収集する研究論文や書籍のなかでも、人麻呂に関わるものはとくに多い。その点で、『古今和歌集』の仮名序にはじまる人麻呂崇拝の流れは、いまも脈々と続いているのかもしれない。

【関連展示品】
 ・「萬葉百首絵かるた」より人麻呂の札
 ・斎藤茂吉「人麻呂讃歌」碑拓本


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