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人麻呂の代表作は?



1.はじめに


 人麻呂の代表作と言えば、どの歌を思い浮かべるだろうか。『万葉集』には「人麻呂作」と明記された歌が90首近くある。そのなかから「この歌だ」と選ぶのは、なかなかむずかしい。そこで、昭和になって出版された『万葉集』の代表的な秀歌選である斎藤茂吉『万葉秀歌』(昭和13年 岩波新書)、山本健吉・池田弥三郎『萬葉百歌』(昭和38年 中公新書)、松尾聡『万葉の秀歌』(昭和40年 武蔵野書院)、久松潜一『万葉秀歌』(昭和51年 講談社学術文庫)、中西進『万葉の秀歌』(昭和59年 講談社現代新書)の5種類を目安にして調べてみると、すべてに選ばれている歌が2首だけある。

  東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ (巻一・48)
  近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのに古思ほゆ    (巻三・266)

 いずれも教科書にかならず掲載される歌で、代表歌とするのに過不足はない。しかし、この2首が確固たる評価を得たのは万葉研究が進んだ近代になってからで、それ以前となると、まったく別の歌が人麻呂の代表作と考えられていた。


2.誤解された人麻呂歌


 正月に「百人一首カルタ」で遊ぶ子どもも少なくなってきたが、このカルタのもとになった藤原定家が選ぶ『百人一首』のなかに、人麻呂の歌が含まれている。

  あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む

 人麻呂と言えば、この歌をまず思い浮かべる人もいるにちがいない。しかし、この歌は『万葉集』の歌ではあるが、じつは人麻呂作ではない。巻十一にある作者未詳歌(2802番歌の或本歌)である。それでは、いつからこの歌が人麻呂作と誤解されるようになったのか。おそらく藤原公任という平安時代中期に活躍した歌人が、そのことと深くかかわっていると考えられている。
 公任は、和歌に関わる著書を多く残した歌人である。その公任が、歌のうまい歌人を36人選んで『三十六人撰』を作ったのがきっかけとなって、「三十六歌仙」が生まれた。もちろん人麻呂は紀貫之とともにその筆頭に位置付けられ、代表作としてつぎの10首が選ばれている。

  1 昨日こそ年は暮れしか春霞春日の山にはや立ちにけり
  2 明日からは若菜摘まむと片岡の朝の原は今日ぞ焼くめる
  3 梅の花それとも見えずひさかたの天霧る雪のなべて降れれば
  4 ほととぎす鳴くや五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも
  5 飛鳥川もみぢ葉流る葛城の山の秋風吹きぞ頻くらし
  6 ほのぼのと明石の浦の朝霧に島隠れ行く舟をしぞ思ふ
  7 頼めつつ来ぬ夜あまたになりぬれば待たじと思ふぞ待つにまされる
  8 あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む
  9 我妹子が寝くたれ髪を猿沢の池の玉藻と見るぞ悲しき
  10 もののふの八十宇治川の網代木にただよふ波の行方知らずも

 しかし、このうちで、『万葉集』に「人麻呂作」と明記されているのは10の歌だけである。ほかに4首(1・4・5・8)の『万葉集』歌があるが、いずれも作者未詳歌で、人麻呂の歌ではない。さらに、3・6は『古今和歌集』に、9は『大和物語』にあり、『万葉集』の歌ではない。だからと言って、「公任は人麻呂を誤解していた」と簡単に片づけられることはできない。


3.あらたな代表作


 『古今和歌集』の序文で「歌の聖」とされた人麻呂は、その後の『古今和歌集』重視の流れのなかで、『万葉集』からかけ離れたところでひとり歩きをはじめ、徐々に「歌の神」へと変貌していた。公任もまた、その束縛から逃れることはできなかった歌人のひとりである。
 ところで、『人麿集』(現存写本の多くは「柿本集」と題されている)という歌集がある。『万葉集』の作者未詳歌(巻七・十・十一などの歌)を中心に人麻呂の歌を一部含んだ形で、公任が活躍したころには原形が成立していたと考えられている。おそらく当初は『万葉集』の秀歌を集めた作歌のための手引書として編まれたのであろう。しかし、最初からこの名で呼ばれていたのではなく、人麻呂の歌が含まれていたことから誤解されて、のちに命名されたらしい。
 公任がこの歌集を見ていたかは定かではないが、さきの10首のうち、5をのぞく9首がこの『人麿集』に収められていることは注目に値する。公任が人麻呂の代表作を選んだとき、『万葉集』を資料とせず、『古今和歌集』にはじまるあらたな「人麻呂」像に立脚したところで選歌したことはまちがいない。これはけっして誤解ではなく、当時としては当然の人麻呂評価だったのである。
 さらに時代が下ると、この『人麿集』は人麻呂崇拝のバイブルとしてますます重視されるようになる。そして、人麻呂の歌を…と言えば、まずこの歌集から選ぶという時代が長く続くこととなる。
 人麻呂が「歌の聖」としてひとり歩きしはじめる大きな契機となったのが、この公任にはじまる「三十六歌仙」崇拝であったことはまちがいない。そして、10首選ばれた人麻呂歌のなかで6だけが別格のように扱われていくのも、公任が大きな役割を果たすこととなった。

  上品上 これはことば妙にして余りの心さへあるなり。

 公任の歌論書『和歌九品(九品和歌とも)』の一節である。ここにあるように、「ことば妙にして余りの心さへある」という「余情」の歌を、「上品上」としてもっとも重視した公任は、さきの6の歌をその代表例としている。ことばにあらわれない心が表現された秀歌として、公任はこの歌をもっとも高く評価していたのである。
 平安時代のおわりごろの院政期になって『万葉集』が正しく読まれるようになっても、人麻呂だけは『人麿集』によって評価され続けた。そして、『古今和歌集』を絶対視する歌人たちの流れのなかで、「歌の聖」人麻呂は、徐々にその姿を「歌の神」へと変貌させていく。そのきっかけとなったのが、「三十六歌仙」を選出し、「余情」の代表歌に『万葉集』にない人麻呂歌を選定した公任だったのである。

4.正しい理解へ


 一千年忌にあたると考えられた享保8年(1723)、人麻呂に「正一位柿本大明神」という最高位が与えられた。『古今和歌集』にはじまる人麻呂崇拝の流れは、ここに最高潮に達したと言えるだろう。しかし、それから45年後の明和5年(1768)、賀茂真淵の『万葉考』が出版されて、やっと現代にもつながる人麻呂理解がはじまることとなる。
 それまでの『古今和歌集』や『人麿集』を中心とする人麻呂像を払拭した真淵は、『万葉集』に残された歌を根拠に、できるだけ正しい人麻呂像を描こうとした。現代の研究からすれば問題も多いが、はじめて真っ正面から人麻呂を取り扱った点では評価されている。
 しかし、このような真淵の努力もあとに続かず、伝統的な人麻呂崇拝の波はなかなか消えることはなかった。真の意味で人麻呂が正しく評価されるようになったのは、やはり明治以降を待たなければならなかったのである。
 つねに人麻呂と対極に論じられることの多い家持だが、家持のみを扱った研究書で最初に出版されたのはおそらく尾山篤二郎『大伴家持の研究 上』(昭和23年)であろう。それに対して、人麻呂のみを扱った研究書は、塚越芳太郎『柿本人麻呂及其時代』(明治35年)や関谷真可禰(まかね)『人麻呂考』(明治40年)のように、すでに明治時代には出版されていた。さらには、昭和初期に斎藤茂吉『柿本人麿』全5巻という大著が出版されたことを考えると、人麻呂崇拝の流れは、ある意味では脈々と続いていたのかもしれない。
 まったく史書にあらわれない人麻呂の実像は、まだまだ闇の彼方にある。『古今和歌集』や『人麿集』の呪縛から解き放たれた現代の万葉研究にあっても、いまだ万人が納得する人麻呂像は描かれていない。90首近く残された歌が語りくるものを、いかに正しく実像へと導くか。研究者の不断の努力はくり返されている。年に1500近く公にされる研究論文のなかで、家持とともにつねに人麻呂をめぐるものが多いのも、そのためであろう。そういう意味で、人麻呂崇拝はいまだ崩れていないのかもしれない。



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