高岡市万葉歴史館トップページ


柿本人麻呂とその時代展トップへ


井上博道のえがく藤原京の世界

井上博道氏の写真の展示風景1   井上博道氏の写真の展示風景2

写真家 井上博道

奈良は、時代を超えて、
悠久の時が流れるところです。
その存在価値は、日本人の魂の「よりしろ」であり、
有形無形の民俗遺産です。

─井上博道─


 井上博道氏は、学生時代からアルバイトで写真を撮り続け、産経新聞社の写真部に入社。その頃、新聞記者時代の司馬遼太郎と出会い、交友を深め、やがてフリーカメラマンとなる。仕事に悩み上京を考えた井上氏に、司馬は「君が奈良、京都を離れ、東京に出て何ができるか」と諭し、また、「三岸節子の油彩の日本人ばなれした色彩感覚に学べ」と言ったという。
 以後迷うことなく、奈良を拠点として、自然と美術、人間の中に潜む宗教性をテーマとして撮り続けている。奈良にこだわり続ける井上氏の写真の色彩は、古色蒼然とした古代のイメージを一掃し、現代の我々の眼前に迫ってくる。
 そうした井上氏の写真と、古代の人々の歌が織りなす「藤原京の世界」を体感していただきたい。なお、今回の展示では、
『奈良万葉@』におさめられている写真を含めて、藤原京関連の作品7点を展示した。

(参考文献:井上博道「タイトルは『美の脇役』や!」『芸術新潮』1996年8月号)


◆井上博道・プロフィール

 1931年 兵庫県に生まれる。
 1954年 龍谷大学文学部仏教史学科卒業。
 1955年 産経新聞大阪本社編集局写真部入社。
 1066年 フリー写真家となる。
 1983年 大阪芸術大学写真学科勤務。
 1988年 (有)井上企画・幡を設立。
 1991年 龍谷大学より龍谷賞を授与される。
 1997年 大阪芸術大学写真学科退職。
 
  日本写真協会会員 民族芸術学会会員 奈良市写真美術家協会会員

主な著書
『東大寺』中央公論社  『日本の庭園』講談社  『日本名建築写真集(東大寺)』新潮社  『奈良・大和路』京都書院  『奈良万葉』奈良市  『大和路の野の花』文化出版局  『やまとのかたち・こころ』講談社  『奈良万葉@〜E』光村推古書院  ほか多数




◆藤原宮の御井の歌
 (写真・藤原京の夜明け 大極殿跡)



 天皇(大君)が藤井が原(藤原宮の地)に宮殿(大御門)を作り始めて、埴安の池(香具山の北西に広がっていたとされる池で今はない)の堤から国を眺めることから歌ははじまる。そして、以下のように、四面が麗しい山に囲まれた「青山四周」の素晴らしい宮であることがうたわれる。

  香具山(かぐやま)…東(日の経)  畝傍山(みみなしやま)…西(日の緯)
  耳成山(うねびやま)…北(背面)  吉野山…南(影面)

 現在、藤原京の発掘が日進月歩で行われているが、その出発点は『万葉集』のこの歌の山の位置関係を示す記述が最大の手掛かりだった。

 長歌の終わりでは、宮の井戸の水を「常にあらめ御井の清水」と、聖水の永遠性をうたうことによって宮の繁栄を祈願し、続いて反歌では、その聖水を汲む宮仕えの乙女たちを讃えられるといった構成を持つ歌である。

 ちなみに、いわゆる「大和三山(やまとさんざん)」とは、畝傍山耳成山香具山の3つの山の総称である。

     
   藤原宮の御井の歌

やすみしし 我ご大君(おほきみ) 高照らす 日の皇子
荒栲(あらたへ)の 藤井が原に 大御門(おほみかど)  始めたまひて
埴安(はにやす)の 堤の上にあり立たし 見したまへば
大和の 青香具山は 日の経(よこ)の 大き御門(みかど)に 春山と 茂みさび立てり
畝傍の この瑞山(みづやま)は 日の緯(たての)の 大き御門に 瑞山と 山さびいます
耳成の 青菅山は 背面(そとも)の 大き御門に よろしなへ 神さび立てり
名ぐはし 吉野の山は 影面(かげとも)の 大き御門ゆ 雲居にそ 遠くありける
高知るや 天の御蔭(みかげ) 天知るや 日の御蔭の
水こそば 常にあらめ 御井(みゐ)の清水    (巻一・五二)

   短 歌

藤原の 大宮仕(おほみやつか)へ 生(あ)れつくや 
         娘子(をとめ)がともは ともしきろかも  (五三)

     右の歌、作者未詳なり

  


【大意】

   藤原宮の御井の歌

わが大君の 高照らす 日の神の子である天皇が
藤井が原に 宮殿を 造り始められ
埴安の池の 堤の上に お立ちになり ご覧になると
大和の 青香具山は 東の大御門に 春山らしく 茂り立てっている
畝傍の この神秘の山は 西の 大御門に 神山らしく いかにも山然と立っている
耳成の青菅に囲まれた山は の 大御門に 格好良く神々しく立っている
その名もよい 吉野山は の 大御門から 雲の彼方の 遠くにある
高くそびえる 天つ神の大宮 天を覆う 日の御子の大宮
ここの水こそは 永遠であろう 御井の清水よ    (巻一・五二)

   短 歌
藤原の 大宮に仕えるために 
    生まれつづく 乙女たちは 羨ましいなあ   (五三)

 右の歌は、作者不明である





◆高市皇子挽歌 
(写真・高所寺池と香具山)

 あまりの長さのため省略した長歌(199番)は、『万葉集』中一の149句にも及ぶ長大な挽歌である。長歌では、天武天皇の皇子であった高市皇子(たけちのみこ)が、生前に壬申の乱で活躍した様子や、皇子の死後、宮人たちが悲嘆にくれる様などがうたわれている。
 高市皇子の殯宮が営まれた城上(きのえ)の地は現在地不明である。長歌に出てくる「香具山の宮」は居住していた宮と考えてられている。
 201番歌で、皇子の舎人たちが、埴安(はにやす)の淀んだ沼の水のように行末をどうしてよいかとまどっている、とうたわれているのも、埴安の池が香具山付近にあったためであろう。
 檜隈女王(ひのくまのひめみこ・未詳)がよんだと左注にある202番歌の泣沢神社(なきさわじんじゃ)は、現在も畝尾都多本神社として香具山の西麓にその跡を残す。



   


  高市皇子尊の城上の殯宮の時に
  柿本朝臣人麻呂が作る歌一首 并せて短歌

    ……長歌(巻二・一九九)省略……

  短歌二首

ひさかたの 天知らしぬる 君故に
   日月も知らず 恋ひわたるかも  (巻二・二〇〇)

埴安の 池の堤の 隠り沼の 
    ゆくへを知らに 舎人は惑ふ  (二〇一)

  或書の反歌一首

泣沢の 神社に神酒据ゑ 祈れども 
     我が大君は 高日知らしぬ  (二〇二)

  右の一首は、『類聚歌林』に曰く、
  「檜隈女王、泣沢神社を怨むる歌なり」といふ。
  『日本紀』を案ふるに云はく、
  「十年丙申の秋七月、辛丑の朔の庚戌、後皇子尊薨ず」といふ。

    

【大意】

  高市皇子尊の城上の殯宮の時に
  柿本朝臣人麻呂が作った歌一首 あわせて短歌

    ……長歌(巻二・一九九)省略……

  短歌二首

(ひさかたの) 昇天された 皇子ゆえに 
  日月の過ぎるのもわからないほど恋い続けることよ (巻二・二〇〇)

埴安の 池の堤に囲まれた 隠り沼の水のように
  どう流れていくともゆくへを知らず 舎人たちはさまようことよ (二〇一)

  ある書の反歌一首
泣沢の 社に神酒を捧げ 蘇られるようにお祈りしたが
  我が大君は 天高く昇って行かれた (二〇二)

   右の一首は、『類聚歌林』に、
   「檜隈女王が、泣沢神社を怨んで作った歌である」とある。
   『日本書紀』を見ると、
   「持統十年七月十日、高市皇子が亡くなった」とある。




◆泣血哀慟歌(きゅうけつあいどうか)(写真・甘樫丘より剣池を望む)


 井上博道氏の写真集(『奈良万葉@飛鳥』)の巻末を飾る写真は、いわゆる「泣血哀慟歌」と呼ばれるを添えている。それはきっとこの写真に撮された「石川池」付近が、歌に詠まれている「軽の市」周辺であることに加えて、この落日の色が妻の死を嘆く人麻呂の「血の涙」を思わせるからなのかも知ない。
 この「泣血哀慟歌」には、市場に立つ妻やその妻を求めて人前で袖を振る自分の姿を描いていることなどの細かい部分で、実際の話なのか疑問視される上に、そもそもこの長い長歌に別伝があることなど、多くの点で「物語」的な面が見られている。そのため、これは本当に人麻呂が妻を亡くした時に詠んだ直情の歌ではなく、宮廷サロンなどで発表された文芸作品であろうと考える人もいる。
 『万葉集』に記された「題詞」をそのまま信じて「真実」と見るのか、或いは、あくまで「虚構」の文学作品と見るのかは、その歌を「よむ」読者の人生そのものに関わってくると思われる。結局、歌を解釈し鑑賞することは、自分の人生を振り返ることなのかも知れない。


  
  柿本朝臣人麻呂、妻が死にし後に
  泣血哀慟して作る歌二首 并せて短歌

天飛ぶや 軽の道は
我妹子が 里にしあれば
ねもころに 見まく欲しけど
やまず行かば 人目を多み
まねく行かば 人知りぬべみ
さね葛 後も逢はむと 大船の 思ひ頼みて
玉かぎる 磐垣淵の 隠りのみ 恋ひつつあるに
渡る日の 暮れぬるがごと
照る月の 雲隠るごと
沖つ藻の 靡きし妹は
黄葉の 過ぎて去にきと
玉梓の 使ひの言へば
梓弓 音に聞きて [一に云ふ 音のみ聞きて]
言はむすべ せむすべ知らに
音のみを 聞きてありえねば
我が恋ふる 千重の一重も 慰もる 心もありやと
我妹子が 止まず出で見し 軽の市に 我が立ち聞けば
玉だすき 畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえず
玉桙の 道行く人も ひとりだに 似てし行かねば
すべをなみ 妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
[或本には、名のみを 聞きてありえねば といふ句あり]
                          (巻二・二〇七)

  短歌二首

秋山の 黄葉を繁み 惑ひぬる 
 妹を求めむ 山道知らずも
    [一に云ふ 道知らずして] (二〇八)

黄葉の 散りゆくなへに 
 玉梓の 使ひを見れば 逢ひし日思ほゆ  (二〇九)


うつせみと 思ひし時に
  [一に云ふ、 うつそみと 思ひし]
取り持ちて 我が二人見し
走り出の 堤に立てる
槻の木の こちごちの枝の
春の葉の 繁きがごとく 
思へりし 妹にはあれど
頼めりし 児らにはあれど
世の中を 背きし得ねば
かぎろひの 燃ゆる荒野に
白栲の 天領巾隠り
鳥じもの 朝立ちいまして
入日なす 隠りにしかば
我妹子が 形見に置ける みどり子の
乞ひ泣くごとに 取り与ふる 物しなければ
男じもの わき挟み持ち
我妹子と 二人我が寝し
枕づく 妻屋のうちに
昼はも うらさび暮らし
夜はも 息づき明かし
嘆けども せむすべ知らに
恋ふれども 逢ふよしをなみ
大鳥の 羽易の山に
我が恋ふる 妹はいますと 人の言へば
岩根さくみて なづみ来し
良けくもそなき
うつせみと思ひし妹が
玉かぎる ほのかにだにも 見えなく思へば  (二一〇)

  短歌二首

去年見てし 秋の月夜は 照らせれど
          相見し妹は いや年離る (二一一)

衾道を 引手の山に 妹を置きて
       山道を行けば 生けりともなし (二一二)


 

【大意】

  柿本朝臣人麻呂が、その妻の死んだ後に
  泣血哀慟して作る歌二首 あわせて短歌

(天を飛ぶ)軽(雁)の道は 妻の 里なので よくよく見たいとは思うけれど 絶えず行くと 人目も多く しばしば行くと人に知られそうだし さね葛のように 後で逢って共寝をしようと大船を 頼むような気持ちで 玉のように輝く 磐の垣根に囲まれた淵の内に 隠るように 逢わず恋い慕っていたら 空を渡る太陽が 沈みゆくように 照る月が 雲隠れるように 沖の藻のように 私に靡き寄り添っていた妻は 「黄葉の 散るように亡くなりました」と (玉梓の)使者が言うので 梓弓の音を聞くように知らせを聞いて [また「知らせだけを聞いても」]言いようもなく しようもなくて 知らせだけを 聞いてすます気にはなれないので この恋しさが 千分の一でも 慰められる晴れる気持ちもあるかと 愛しい妻が いつも出掛けて見ていた 軽の市に 私も行って立ち止まって耳をすますと (玉だすき)畝傍の山に 鳴く鳥の 声も聞こえない (玉桙の)道を行く人も一人として 似ている人が通らないので もうどうしてよいかわからず 妻の名を呼び 妻が現れないかと袖を振った [或本には「妻の名のみを 聞いているだけでは耐えがたいので」という句がある]  (巻二・二〇七)

  短歌二首

秋山の 黄葉が繁っているので 道に迷ってしまった 
 妻を捜したくても 山道がわからないよ [また「道を知らないで」] (二〇八)

黄葉の 散りゆく折に
 (玉梓の) 使者を見ると 妻と逢った日のことがあれこれと思われてならない (二〇九)


まだ普通にこの世の人だと 思っていた時に [また「生きていると思っていた] 手に手を取って 私と二人して見た 走り出の 堤に立っている 槻(ケヤキ)の木の あちこちの枝の 春の葉の 繁っているように若いと 思っていた 妻であるが 頼りにしていた 女であるが 世の中の摂理に 背くことはできず 陽炎の 燃える荒野に 純白の 大空の領巾に包まれて 鳥のように 朝に家を発って 落日のように 姿を消してしまったので 妻が 形見に残した 幼子が物乞いしさに泣くたびに 取り与える 物もなければ 男だというのに 小脇に抱え持ち 妻と 二人で寝て 枕を交わした 離れの内で 昼も うらさび暮らし 夜も ため息ばかりついて明かし 嘆いても どうしてよいかわからなく 恋しくても 逢う方法もない 「大鳥が羽を交わしあうという 羽易の山に 私が恋しく思う 妻はいる」と 人が言えば 岩根を踏み分けて 苦しみながらやって来た その甲斐もない 生きていると 思っていた妻が 玉がゆらめき光るように ほのかにさえも 見えないことを思うと (二一〇)

  短歌二首

去年見た 秋の月夜は 今年も照っているけれど
 一緒に見た妻は ますます年とともに遠ざかっていく (二一一)

衾道よ 引手の山に 妻を置いて
    山道を帰って行くと 生きている甲斐がない (二一二)



柿本人麻呂とその時代展トップへ