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藤原京の生活
  

藤原宮模型の写真

藤原京模型

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済


◆藤原京─新益京─

 持統8年(694)12月6日,「藤原宮に遷居」したと『日本書紀』は記している。これより先,持統4年10月に,まず高市皇子が公卿・百寮を率いて「藤原宮地」を視察し,12月に持統天皇による確認があり,翌年の11月に藤原京の地鎮祭が行われた。そのことを『日本書紀』は「新益京を鎮祭らしむ」と記す。
 持統6年正月の視察時も「新益京」と記されている。それまでの飛鳥浄御原宮に対して,新たに益のある京との意味なのだろうか。


◆大藤原京

 昭和41年(1966)に奈良県教育委員会の発掘が行われ,藤原宮大極殿の位置が確認された。その調査をもとに岸俊男氏によって藤原京域は,大和三山に囲まれ,横大路と下ツ道を基準とする「南北十二条東西八坊」説が立てられ,以後通説となった。
 ところが,昭和55年(1980)にそれまで京域外と考えられていた地点で道路の遺溝が見つかってから,以後数ヶ所で同じような遺溝が見つかり,「大藤原京」説が提唱されるようになった。この大藤原京説では,現在のところ土橋遺跡(橿原市)が西京極,上之庄遺跡(桜井市)が東京極と推定されている。

CGによる藤原宮朱雀門の復元画像

CGによる藤原宮朱雀門の復元

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済


◆藤原宮─瓦葺きの宮殿

 藤原京の宮城である藤原宮は,およそ1q四方の広さで,平城宮・平安宮とほぼ同じ広さである。周囲は高さ5.5メートルほどの瓦葺きの掘立柱塀をもつ大垣で区画されており,大垣の両側には濠(内濠と外濠)がめぐらされている。東西南北の各面に3カ所ずつ,計12の宮城門を開く。南の中門の名称は明らかでないが,朱雀門,あるいは大伴門であろう。
 宮内は,官人が参集する場であり,かつ政治の場でもある12の堂からなる朝堂院,政治・儀礼の場である大極殿院が南北に接している。その両側には諸官衙が立ち並んでいたと推定されている。
 天皇の住まいである内裏や諸官衙は掘立柱建物であるが,大極殿や朝堂院は礎石建,瓦葺きの建物であった。

藤原宮出土の軒丸瓦・軒平瓦の写真

藤原宮出土の軒平瓦・軒丸瓦

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済


◆藤原宮の瓦(軒丸瓦・軒平瓦)

 飛鳥の諸宮の発掘調査では瓦は検出されていない。藤原京の時代になってはじめて宮殿に瓦が葺かれたとみられる。藤原宮の軒瓦は平城宮の軒瓦と比べると、全般的に大ぶりである。
 軒丸瓦は複弁八弁蓮華文。中房は大きく、種子が中央の1個を中心に二重にめぐっているのが特徴である。外区内縁には連珠文、外縁には鋸歯文がめぐる。
 軒平瓦は内区に唐草文が用いられ、上外区に連珠文、下外区に鋸歯文が配されている。 瓦葺きにするためには大量生産が必要であったが、それを裏付けるように瓦を焼いた窯跡が奈良盆地の各所で発見されている。
 藤原宮の瓦は平城京遷都にともない平城宮で再利用されている。

藤原京出土の土器の写真

藤原京出土の土器

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済



◆飛鳥藤原京の土器
 (時代・年代を測るものさし)

 飛鳥藤原地域に都がおかれた100余年の間に,土器は大きく変った。飛鳥T〜飛鳥Xの五つの段階に分けられる。最も変遷をつかみやすいのは食器の類。
 土師器では,銅索(どうわん)を模倣した杯(つき)があらわれ,形や光沢を忠実にうつした初期の段階から,しだいに平たい形となり,表面の磨きを省略するものへと変る。
 須恵器も古墳時代以来の杯が7世紀中頃に姿を消し,銅索,仏器をうつした形の杯が多くなる。器の種類も増えてくる。
 土器の実年代も文献や伴出の木簡をてがかりに推定でき,遺跡の実年代を判定する基準尺となっている。 (飛鳥藤原宮跡発掘調査部展示案内『藤原宮と京』による)


藤原京の市

◆東市と西市

 藤原京の市について記した文献資料は,14世紀に成立した『帝王編年記』大宝3年の条に,「始メテ東西市ヲ立ツ」とあるのが唯一のものである。
 現在までのところ,この「東西市」がどこにあったのか確認されていない。ただし,宮の北面中門付近から「市」の文字を記した木簡が出土していることから,後の平城京・平安京などの「東西市」とは異なって,宮の北方にあったのではないかとも考えられている。
 本展示は「市場で売られていた品々」と題しているが,「市」の場所が確認されていないので,厳密には正確ではない。しかし,この藤原京時代に本格的な貨幣である「和同開珎」が作られたことで,物々交換であった時代から貨幣流通による売買の時代へと変化し始めたのである。したがってここに展示した品々は,当時の「市」で買うことができたはずの物である。
 当時成人男子の日当は銅銭1枚(1文)で,その1文で白米1.8kgが買えたと考えられている。
 なお,当時の役人の年収を銅銭に換算すると,「正二位右大臣」(藤原不比等)は309070枚,「従五位下」(太安麻呂や越中守大伴家持など)で12250枚,下級役人では310枚ほどと考えられている。
 *日給を5000円として計算してみてください。

市で売られていた品々

市で売られていた品々    

奈良文化財研究所飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済


和同開珎の差し銭・銀銭・無紋銭の写真

和同開珎の差し銭
和同開珎銀銭・銅銭
無文銭

奈良文化財研究所
飛鳥藤原宮跡発掘調査部許可済




◆和同開珎

 平安時代以前には「和同開珎・万年通宝・神功開宝」3種類の銅銭が作られた。
 和同開珎の発行は,まだ都が藤原京にあった和銅元年(708),元明天皇の時である。平城京遷都は和銅3年のことである。



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